体育や美術のように

体育や美術のように

理想の学校英語教育の形は、英語は「体育」や「美術」のような科目と同じような位置づけにすべきだと考えています。

日本人のほぼ全てが学校で体育や美術の授業を受けます。その中で、100M走で足の早い人遅い人はいても走ることのできない人は健常者であれば存在しません。

美術の描画に関しても絵を描くのが上手な人,下手な人はいても絵を描くことができない人はまず存在しません。

英語に関しても、日本人の英語学習者の全てが、英語を話すことが上手、苦手はあっても英語で話すことができない人はいないという状態を作ることができると思います。

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話を単純化するために、体育の科目との比較によってこのことを説明してみたいと思います。
体育の授業ではたとえば、走り高跳びの授業の場合、助走の仕方や飛ぶ位置、飛ぶときの姿勢について、長い時間をかけて黒板やテキストを用いてレクチャーをするのではなく、まずは実際に生徒に飛ばせてみて、その結果、課題となる部分について指摘するなどの方法をとると思います。

英語に関してもこれと同じような要領でやってみればよいのです。まず、実際に英語で会話をすること、これを実践することが何よりも重要なことはいうまでもありません。

この考え方で一番重要なことは英語の教師の役割ということになります。

英語で会話をすることが授業の中心となれば、当然にして英語の教師は英語で会話をすることがまず、最低限必要な能力ということになります。このように、英語を用いて英語を教える方法は直接法と呼ばれます。

この要件によって現在の英語教師のかなりの割合が危機感を募らせてしまうのではないでしょうか。

英語の教師が英語を話すことができないことに危機感を募らせるという国は世界広しといえども日本くらいのものではないかと良くいわれますが、残念ながら事実として受け止めなければなりません。しかし、私はそこで必要とされる英語は完璧な英語である必要は全く無いと思います。

体育の授業風景を思い浮かべてください。

体育の教師は自ら走り高跳びをして見せる必要があるでしょうか。中には、身体能力に優れ、自らが実際に見本を見せることのできる教師もいるでしょう。

しかし、一般的には、クラスの中で一番運動神経の優れた生徒を抽出し、その生徒に実際に飛ばせてみせ、その見本を利用してポイント解説するというような形をとるのではないでしょうか。これと同じことが英語でもいえると思います。

英語教師がネイティヴと同じようにキレイで間違いのない英語の使い手でなければならない必要性などどこにもありません。極端な話、教師が生徒が知っている英語を全てを知っていなければならないという必要さえないと思います。

ここで英語教師に必要なのは日本語を一切使わず、その教師の英語の上手下手に関わらず、英語だけで授業をやりきる「勢い」と生徒に日本語を使わずに授業を乗り切らせるだけの「交通整理力」の二つにあると思います。

それでは、コミュニケーション中心の英語授業における「勢い」と「交通整理力」を備えた英語教師像とはいったいどのようなものなのでしょうか。

それは、良きモチベーターになることではないかと思います。

その授業時間全体の中で生徒に対して、英語を使って自分の意思を通じ合わせる経験をできるだけ多く積ませ、「通じた!」というなんともいえない興奮、向上感、優越感等を感じさせ続けることができる能力を持った人ということになります。

ですから、まずは自らが現状持ちうる全ての英語の知識を会話に持ち込むことです。自らが生徒の前で、自らの意思を伝達するために必死になって、もてる全ての知識を搾り出して「通じる」という状態を作り出す場面を生徒に見せることです。

英語でのコミュニケーションの本質は英語を「正しく使うこと」よりも、「通じる」ことなのです。文法的に間違っていても「通じる」限りにおいて正解であるということを身をもって明らかにするのです。そして、その文法的な間違いに気がついたのであれば、どうしてそれが間違いなのかという指摘を「英語で」説明することです。このようにクラス全体を誘導していくのが教師の「交通整理力」なのです。

すなわち、教師がある単語や語法を知らないということは教師にとって「危機」ではなく、授業のトッピックを提供することになる「好機」となるのです。そして、クラスの中で教師以外で知っている生徒がいたら、その生徒に表現させ、教師がその説明をより深めてあげる役割を果たすことが重要であると考えます。

つまり、教師が「知らない」ということは「恥」ではなく、コミュニケーションの起爆剤になりうると捉える風潮を作り上げることがコミュニケーションの本質を生徒にも理解させることにつながると考えます。

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